展示準備のため、カポックと勝負服を着込んでいる井口佳典を見て、驚いた。オレンジベストを着ていたのだ。体重が50kgを割ったときに調整のために着る重りを装着したベスト。井口はもともと体重が重いほうで、08年賞金王優勝時に大減量してベストを着用。最近では昨年のダービーで着ている。しかし今節、ベストを着ていた記憶はない。そう、井口は今日(というか昨日までに)、50kg以下に体重を減らしたのだ。
ずっと無理なく減量をしてきた、という。調べてみると、最近は51kg~50.5kgくらいでの出走が多い。ここ数年、正直に言って一時のはじけるような強さが鳴りを潜め、SGでは予選落ちが相次いでいた時期もある。そこから復活するために、井口は自分に厳しく過ごすようになった。その一環が減量だ。そして、優勝を意識したとき、さらに体重を絞り込んだ。かつて井口は、49kgくらいが自分の場合はエンジンがもっとも出るのだ、と言っていた。井口はそれを目指した。オレンジベストは、決意の証なのである。
進入ではたしかにヒヤリとさせられた。渡邉英児の締め込みで、大量の水ももらっている。レース後には、服部幸男や横澤剛治がボートを覗き込み、「あきらめかけましたわ」と敗戦を覚悟もしたようだ。実際、足色に影響が出ていたという。しかし、そんなアクシデントよりも、気迫や決心のほうがはるかに上回った。「本っ当に、井口くんはメンタルがすごいですよ! あんな進入になったのに、僕なら平常心ではいられない」。やはりレース後、笠原亮がそう言って唸っていたが、その思いの強さや心の強さこそが、井口の最大の武器であろう。
復活と書いていいのか、と会見で記者に問われ、井口はそう書いてくださいと言って、こう付け加えた。
「今は自信しかない」
強烈すぎる武器を携えて、井口はふたたびこの玉座に戻ってきた。今後のSG戦線は、間違いなくこの男の存在によって盛り立てられていくだろう。
不思議な整備室だった。ウイニングランや表彰式がある勝者以外は、レースを終えると素早くモーター返納作業に取り掛かる。仲間が手伝い、だから人の輪ができ、敗者はそこにいる仲間たちとレースを振り返り合う。ところが、今日はみな、なかなか口を開かずに返納作業を行なっていたのだ。
菊地孝平は、実に不機嫌そうに唇を結んで、悔しさに耐えながらプラグなどを外している。昨日まで、いや今日の朝だって、笑みを絶やすことのなかった渡邉英児も、笑顔をなくしたまま、黙々と工具を扱う。峰竜太も、瓜生正義や篠崎元志らに囲まれているというのに、会話を交わそうという気もないようだ。坪井康晴や桐生順平もまた同様。そこにある空気を感じ取ったかのように、仲間たちも黙ったまま作業を手伝っていて、整備室には金属と金属が触れ合うカチャカチャという音だけが、しばらくは響いていたのだった。
作業が終わりに差し掛かったころ、ようやく峰が口を開いた。菊地孝平と、進入の駆け引きについて、語り始めたのだ。そこで峰にも菊地にも笑顔が戻った。ホーム水面で艇を流しながら、スローに向けるのかダッシュに引くのか、にらみ合った二人。結局、外にいた菊地がスローに向ける意思を見せ、内にいた峰は4コーススローでは妙味がないと考えたのか、ハンドルを右に切って後方に引いた。そのときの様子やお互いの考えたことなどを、ハンドルを切るアクションつきで、峰と菊地は振り返り合ったのだ。
それを合図にするかのように、整備室の空気が少しずつ動き始めた。笑みがなかった渡邉も、「英児のサプライズだったな!」と進入の件を服部幸男に讃えるように言われて、ようやく彼らしい笑顔を見せた。服部幸男という存在が、敗戦の悔恨を噛み締めていた渡邉を癒したのだ。
坪井も、ずらり揃った静岡勢と話して笑顔になっていった。坪井はわりと淡々としているようにも見えていたが、笑顔は見えていなかったのだ。
ただ、桐生だけはついに笑顔は見えなかった。見落とした可能性は否定しないが、顔もやや蒼白となっており、悔しさはその時点では癒えることがなかったか。こんなときこそ西山貴浩、と言いたいところだが、西山は峰の作業を手伝っていたのだった。でもきっと、控室に戻ってから、桐生は西山に癒されたのだと確信する。
「去年はとにかく悔しかった。11月休んでなかったら賞金王に行けたかもしれないし」 08年賞金王覇者は、それから3年間、ベスト12には残れていない。頂点を経験した者にとって、屈辱としか言いようがない3年間だっただろう。
この優勝で賞金トップに躍り出た。おそらく、暮れの聖戦のピットにはその姿があるだろう。今年は屈辱をまとめて雪ぐことになるはずだ。井口の優勝で、賞金王戦線も一気に加速していく! ボートレースの季節の訪れを告げたのは、井口佳典の快勝だったのだ。
(PHOTO/池上一摩 TEXT/黒須田)