ピットが静まり返るなか、篠崎元志は一人、ボートリフトのほうへ向かった。顔つきは、明らかに緊張している。そして、それを近くで見ていたこちらの存在に気付きながら、どこか「声をかけてくれるな」という雰囲気を醸し出した。明らかにピリピリしていた。
多くの選手がリフト付近で優勝戦を観ようとやってきた。元志は、明らかに他の選手との接触も避けようとしている。それに気づいた原田幸哉がからかうように笑みを向けるが、やはり元志の様子がおかしいのだと察したか、それ以上言葉をかけられないでいた。元志はいったん控室方面に歩き出し、ものの数秒で踵を返してまたリフトのほうに向かった。明らかにソワソワしていた。
「仁志が(SGやGⅠの優勝戦を)走るときは、自分が優勝戦を走るより緊張する」
かつてそんなふうに笑っていたこともあった元志。しかし、今日はただの優勝戦ではない。1号艇なのだ。そして、待ちに待った、待ちすぎた瞬間が手を伸ばせば掴める日なのだ。元志が平静を欠くのは当然だ。
篠崎仁志は、冷静に逃げた。スリットでは徳増秀樹がややのぞく隊形だったが、きっちりと先に回り、一気に突き放した。もしかしたら、本当に兄のほうが冷静ではなく、弟は腹を据えて勝負に臨んだ。
その瞬間、元志は声をあげて水面際に駆け出している。呪縛から解き放たれたように、元志は歓喜の塊になった。
さらに冷静に周回を重ね、完勝のVゴール! 篠崎仁志、悲願のSG制覇!
ピットでは、元志をはじめ福岡勢が満面の笑みで、ただし元志は少し泣き顔で、仁志を待ち構えていた。ボートが係留所についたとき、仁志は明らかに泣いていた! 会見では「向こうが泣いていたので、こっちも泣いてしまった」と仁志は言った。向こうとはもちろん兄だが、もし兄が泣いていなかったとしても、その姿を見つけた瞬間、仁志は泣き出していただろう。
JLCのインタビューが始まっても、仁志は涙を止められなかった。インタビューにはしっかり答えていたが、目には涙がたまり、声も詰まった。「遠回りしたと思う」と語る仁志。昨年のメモリアル準優でFを切り、SGから遠ざかったのを指してもいるだろう(このオールスターがSG復帰戦であった)。それだけではなく、これまでの道程に思いを馳せれば、もっと早く獲りたかった、獲るべきだったのに、獲れなかったという部分もあるだろう。
篠崎兄弟、という騒がれ方にも、複雑なものはあっただろう。兄と比べられることは、それが彼らの宿命ではあっても、結果が出ないうちはただの雑音に聞こえることもあったはずだ。仁志は以前、今はそういう騒がれ方は嬉しいと言っていた。今は、ということは、そういうことだ。それを遠回りというにはあたらないかもしれないが、しかし他の選手にはない“余計なもの”を背負ってきたのはたしかだ。
そうした過程を仁志と元志は共有してきたからこそ、兄の泣き顔は仁志にとってたまらなかっただろう。そして、ついに目指してきたもののはずである、SG制覇を果たした喜びが最高潮に高まっただろう。それがピットにいる全員に伝わって、場は一気に湿度を増した。きっと誰もが潤いを感じていた。
仁志がインタビューを受けている間、元志は仁志のボートを引き上げ、エンジン吊りに駆け回っていた。元志が目の前を通る。おめでとうございます! そう声をかけると、元志ははっきりとこちらを見据えて、力強く「ありがとうございます!」と言った。涙声で。いや、もう完全に涙を流しながら。
仁志は表彰式の準備をしなければならず、兄弟の再会は仁志の着替えを待たなければならなかった。表彰式用のユニフォームに着替えた仁志は、モーター格納の手続きのため、整備室に向かった。整備室の出入口に差し掛かった時、元志が背中から仁志に声をかけた。
振り返った瞬間、仁志は完全に泣き顔になった。抱き合う二人。固く抱き合う篠崎兄弟。僕は元志の背中側にいたので顔を見られなかったが、きっと元志もふたたび泣き出していただろう。たまらない瞬間だった。ハッキリ言って、ヤバかった。
篠崎仁志、おめでとう! 元志もほんとにおめでとう。篠崎兄弟のこの瞬間に立ち会えて、本当に幸せだ。さんざん「最強兄弟」だの「兄弟SG制覇」だのと騒ぎ立ててうんざりさせた一人だからなおさら、仁志の最高の瞬間、ということは元志にとっても最高の瞬間を目撃できたことに最大の幸甚を感じる。
それは、二人の歩みを、水面では敵として、陸の上では仲間として見てきたほかの選手たちも同様のようだった。ピットに上がって一瞬は悔し気に目元にシワを寄せた毒島誠も、準Vの平本真之も、白井英治も徳増秀樹も守田俊介も、全員が仁志を心から祝福していた。これまでにも、ピットがひたすら幸せに包まれた優勝戦後というのはあった。それこそ白井の初優勝もそうだったし、峰竜太のときもそうだった。それが今日、またピットに出現した。今日の住之江は、ただただ幸せな日だった!
初優勝だからもちろん水神祭も行なわれている。参加したのは福岡勢と同期の守屋美穂。瓜生正義も含め、全員が飛び込むにぎやかなものだった(大山千広が溺れかけるというハプニングも)。あ、西山貴浩だけは裏切って陸に残り、菊地孝平に突き落とされたんだった。まあ、結果的に全員が飛び込んだ、ということにはなる。
参加はしていなかったが、地元の大阪勢、徳増の静岡勢、平本の愛知勢などなど、多くの選手がこの水神祭を見守っていた。参加した選手もあわせれば20人くらいいたんじゃないのか? そして、陸に上がった仁志が元志とともにカメラマンのリクエストにこたえてポーズをとっている間、全員が拍手を鳴らし続けた。1分、2分ほども続いただろうか。みな笑顔で、飽きることも倦むこともなく、拍手を続けたのだ。やっぱりみんな幸せな気分になっていたのだ。それを生み出したのは、まぎれもなく、篠崎仁志だ。本当におめでとう!(PHOTO/中尾茂幸 池上一摩 黒須田 TEXT/黒須田)