言葉が出なかった。 佐藤翼が起こした瞬間、
整備室で見ていた選手たちが「早い……」と呟いている。
僕にですら感じられた、明らかな早起こし。
外の艇との間隔がほとんど縮まらないままスリットを超えた瞬間、
整備室の黄金井力良が溜め息を漏らしていた。
モニターに「返還①」と出たのを確認した黄金井が、
顔を歪めてがっくりとうなだれた。 佐藤翼、フライング。
昨日の坂元浩仁の際も、ピットの空気は沈鬱になった。
今日の空気の重さは、それとは比較にならない。
巨大な石を飲み込んでしまったかのような息苦しさに、
僕はどう耐えていいのかわからないでいた。
レースを離脱して、ボートリフトに収まった佐藤は、
ただただうなだれていた。黄金井ら埼玉勢は、
そんな姿を見るに忍びなかったのか、
佐藤の様子をうかがうことすらできないでいた。
やがて、レースを終えた選手が戻ってくる。
隣には西村拓也と船岡洋一郎がおさまり、
その間も佐藤はうなだれた態勢のまま、まるで動けずにいた。
やはり坂元の際と同様、選手たちにとって、
誰もが佐藤の屈辱は共有してしまうもの。
優勝した茅原悠紀に声援を送っていたはずの
同期生たちの歓喜の様子も控えめ。
茅原は地上波放送のインタビューに出演するため、
いったん係留所にボートをつけることになっていた。
同期生たちは茅原を出迎えようとして係留所に駆け下りたわけだが、
先頭を走っていた水摩敦の足が一瞬、止まっている。
その係留所の目と鼻の先にボートリフトがあり、
うなだれる佐藤の姿がまともに目に入ったのだろう。
本来であれば大騒ぎしながら係留所へと駆け下りていただろう彼らは、声を発することなく、茅原が戻ってくる場所まで歩を進めていた。
もしかしたら、あえてリフトから遠い係留所に
茅原を誘導していたかもしれない。
99期生がそうして佐藤を気遣いながら茅原を祝福している声は、
それでもやっぱりピットに届いてしまう。
ようやく陸に上がった佐藤は、その声をどんな思いで聞いていただろう。あるいは、耳には届かなかったか。
今日は最終日だから、モーター返納作業をしなければならない。
出走選手たちは、エンジン吊りは仲間に任せて、
まずはカポックと勝負服を脱衣するため控室に走る。
佐藤の場合は、さらに競技本部に向かわねばならない。
フライングを切ってしまった選手は、そうして説諭を受けることになるわけだ。佐藤は他の選手たちと同じタイミングで、
控室へと駆け出している。
着替えを終えた選手たちが、次々とピットへと戻ってくる。
どの選手も思いは複雑なのか、表情は淡々としているように見えた。
思い切り悔恨をあらわす選手も、敗戦への苦笑いを浮かべる選手も、見当たらなかったのだ。準Vの西村拓也は、常に淡々としているように見え、そんな表情でギャグも飛ばしてくるので
一筋縄ではいかないわけだが、このときの淡々とした様子には、
また違う意味があるように思えてならなかった。
船岡洋一郎、青木玄太も同様。
同県の黒井達矢も、佐藤に対する思いは
さまざまに渦巻いているだろうが、淡々とレース後の作業をこなしているように見えた。 そうしてエンジン吊りが進みながら、異変に気づく。
佐藤の姿がそこにないのだ。説諭が長引いているのか。
返納作業は仲間たちがヘルプし、
一丸となって手早く行なわれるものだが、
佐藤のモーターの周りには黄金井らの姿しかなく、
佐藤本人が不在のまま作業が行なわれている。
優勝者のモーターも、選手は表彰式に向かわなければならないため、仲間が終わらせるのが常であるが、
佐藤のモーターも同様にして作業が進んでいたのである。
やがて、他の選手の作業は完全に終わって、
「お世話になりました!」の声があちこちであがる。
そうこうしているうちに、選手の姿が整備室からいっさい消えて、
ピットは一気に静寂に包まれた。
それでも佐藤はピットにはあらわれない。
もしかしたら、佐藤はこのまま仲間に慰められながら、
徳山を後にするのかもしれないと思った。
そのとき、黄金井に支えられながら、佐藤が姿をあらわした。
号泣。声をあげて、佐藤は号泣する。
黄金井に導かれて、佐藤は整備室に入り、
返納検査に立ち会うかたちで、作業を完全に終わらせている。
整備士さんに慰められ、しかし応えられない佐藤。
黄金井がいなければその場に崩れ落ちそうなほどの勢いで、
佐藤は涙を流し続けていた。 こちらの涙腺も熱くなる……。
月並みな言葉を搾り出しておく。今日は泣くだけ泣け、佐藤翼。
そして、その涙を忘れるな。
これは、佐藤翼がいつか味わうハッピーエンドのドラマの、
エピソードのひとつである。大事なエピソードのひとつである。
次は歓喜の涙に号泣する佐藤翼と会えることを僕は信じている。
佐藤のことばかり書いてしまったが、
優勝したのは大本命・茅原悠紀である。
佐藤のフライングによる「恵まれ」Vは、
この優勝の価値を損なうものではないと思う。
ピット離れでのぞいてプレッシャーをかけたこと。
また、大本命が右隣にいるということの威圧感。
つまり、その存在感が佐藤の感覚を狂わせたのだとしたなら、
これはまぎれもない完勝なのである。
だから茅原は、やはり佐藤への気遣いもありながら、
同期とともにおおいに歓喜した。
「乙藤(智史)さんからアドバイスをもらって、
一か八かで叩いた」ことが奏功したそうだ。乙藤も同期である。
同期の言葉を信じて、彼らの思いも背負って、
茅原は先頭でゴールした。ドリーム戦1着、準優勝戦1着、優勝戦1着は文句なしの成績だし、この徳山新鋭王座の主役は徹頭徹尾、
茅原が主役だったということでもある。
その裏に、同期の存在があったことは間違いないだろう。
というわけで、本日の水神祭ファイナル!
茅原悠紀の99期の仲間たちだ!
夕暮れの徳山ピットで敢行されたGⅠ初制覇の水神祭。
集まった同期+後輩だが同県の渡邉和将は、
全員が裸足であり、ということはもちろん、そういうことである。
ワッショイスタイルで茅原を投げ込んだあとは、
みんなで一斉にドボーン!
「誰か俺の腹にエルボーした!」と茅原は笑っていたが、
もう冷たくなり始めた秋の水面を99期生&渡邉はともに
味わったわけだ。茅原も、同期のみんなも、
この瞬間のことを忘れないだろう。
おめでとう、茅原悠紀。これで地元チャレンジカップも
当確と言っていいと思う。今後はSGのピットで会える機会が
増えると思うが、この勲章を引っ提げて、
堂々たる戦いを見せてください!
(PHOTO/中尾茂幸 池上一摩 TEXT/黒須田)